「与えられた立派な表題にふさわしい内容の原稿が書けるのか?」との深刻な疑問を抱きながら、机に向かっています。語るに足る業績も無いので、数少なくなった旧体制下―40医大、毎年4000人の新医師誕生—に医師になった者が、どのような環境下に教育を受け、なぜ肩関節外科を志したのかを記したいと思います。最近しばしば感じる「暑苦しい年配者と冷めた若者」的な世代間のギャップを埋める一助になれば幸いです。
まず自身が肩関節に興味を持ったのは、何時だったろうか。昭和47年最初の出張先–富山・高岡市民病院–で与えられた症例報告の題材が「肩峰下滑液包に限局した結核性滑液包炎」でした。同じ病院に出張中であった先輩と何度も夜通し車を走らせ、東京の母校–慶應義塾大–北里図書館で文献調査をしました。それまで全く報告が無かった病態なので、えらく苦労して報告を完成させましたが、私の中で肩関節は「良く分からない不思議な関節」のままでした。
昭和49年に半年間母校に無給医として帰局した際、それまでの出張病院で先輩達から叩き込まれていない分野として肩関節外科があった事、肩関節の診療を担当していた故福田宏明先生が東海大へ転出予定になっている事から、同級生と共に福田先生の指導を得てCodman著「The Shoulder」を1年半かけて読破しました。この時点で、それまで全く曖昧模糊としていた肩関節の構造と機能がかすかに透かし見えるようになりました。しかし、肩関節外科に強い興味を持ったのは、昭和50年栃木・大田原赤十字病院出張中に棘上筋腱部の肩峰下滑液包にbursitis calcareaが腫瘤を形成し、長期間運動障害をきたした症例に遭遇した時だろうと思います。手術的に摘出し、予想以上に劇的な機能改善が得られ、この成功体験は強烈に心に残りました。
昭和51年当時の東海大学では、赴任した福田助教授、関宏講師(故人)が共に肝疾患で入院し、実働整形外科医が今井望教授・有馬亨講師の2人となった為、助人として私が派遣されました。超多忙でしたが、解剖学教室に潜り込んで、解剖用御遺体で肩関節の勉強をさせてもらいました。この時肩関節内構造は極めて個体差が大きく、関節内圧(陰圧)を除去すると硬性要素による下垂位の関節安定性が極めて限局的であることを知りました。また三笠元彦先生が手術時の肩関節裂隙開大に筋鈎の柄を用いていることに着目し、福田先生が私に肩関節用レトラクターの開発を指示されました。解剖用御遺体を用いて試行錯誤の末、腰椎のTaylor retractorの原理を応用し、後にFukuda retractorとして全世界的に知られるようになるring retractorを開発しました。
東海大在職中に母校が定めた卒後6年間の研修期間を終えました。この間に執刀した1000余の手術の1/3が脊椎関連で、肩関節関連は微々たるものでした。しかし、この時代の肩関節外科手術は略全て観血的手術でしたので、各々の専門分野で開発されてきた刃物(メス、のみ、剪刀など)の使用法を学べた事は、その後大いに役立ちました。研修期間を終え、いよいよ専門領域を決めることになりました。この頃母校の整形外科学教室では、青医連運動の置き土産で、研修を修了した教室員の専門は臨床・研究各班が目ぼしい若手教室員に声を掛ける所謂「一本釣り」で決まっていました。不勉強で、可愛げのない私に声を掛けてくれる班は無く、当時大学内では誰も取り組んでいなかった肩関節外科を自分勝手(!)に専門として標榜し始めました。しかし、長野・飯田市立病院への転勤を命じられ、さらに1年半後の昭和55年から5年間埼玉医大に赴任し、当時着手していた基礎的研究を中断せざるを得ませんでした。一方で、この間多くの肩関節疾患を独力で診断・治療し、多くの失敗も有りましたが、多くのことを学ぶことが出来ました。この間に1年半の米国留学(Columbia: Dr. Neer, MGH: Dr. Rowe, Mayo: Dr. Cofield)も経験させてもらいました。昭和60年に母校に帰り、昭和62年初めての独立した研究・臨床班として肩関節班を立ち上げました。
人生では多くの時点で岐路に立たされ選択を迫られますが、私の場合選択は何時も「行き当たりばったり」で消極的でした。高校3年生時には、文系・理系の父・兄が一般社会の荒波に揉まれてぼろぼろになっている姿を見て、それ以外の道として医学を選択しました。大学卒業時には、学生時代サッカー部で整形外科にお世話になる機会が多かったこと、さらに「身体さえ丈夫であればなんの条件も付けない」と先輩にも言われ、劣等生の私は整形外科に飛び付きました。専門分野にしても、先に述べた如く、既存のどの研究・臨床班からも誘いが無かったことが肩関節外科を選択した最大の理由です。消極的な理由での選択ばかりですが、選択した路で「一所懸命」の精神で一心不乱に励めば、道は開かれるようです。また、当時泰斗として知られたDr. Neerが、留学中私がおし・つんぼの状態であったにも拘わらず、その後の国際学会で会うたびに「自分の大切な弟子」として遇してくれた事は、実力以上に活躍の場を広げてくれました。故福田先生、故Neer先生との邂逅が肩関節外科への、また国外での活動の扉を開いてくれました。この意味で、若い医師には国内外を問わず所属機関の枠外で他人の飯を食うことを強く勧めたいと思います。井蛙になるなかれ!
研究面では誇れるような成果を挙げ得ませんでしたが、若い同僚たちと肩の機能障害をきたす病態を幅広く報告してきました。対象を一定の病態に限局しなかったので、得られる知識は当然幅広くなったものの浅くなりました。臨床医としては好都合なのですが、研究者としては・・・・。何を目的に、どの様に実現するか、研究に求められる計画性は「行き当たりばったり」の人生とは相容れぬものでした。
50歳代になり、自験例を対象に長期追跡調査が出来るようになりました。当時でさえ個人情報保護の名目で闇雲に行き過ぎた情報管理が行われていたため、追跡調査は困難を極めました。人口の流動性が高い大都市部の総合病院では、早晩長期追跡調査が不可能になる恐れがあります。長期追跡調査は、調査過程でいろいろなことを教えてくれます。前方不安定症術後のスポーツ選手では、競技復帰から短期間に対側(健側)肩の脱臼が高率に発生することなどから、手術側の肩に対する潜在的な脱臼不安感の存在が窺われます。若い女性に多い非外傷性多方向不安定症では、多くの患者が出産・育児を経ると手術の有無に関わりなく身体所見・愁訴が改善します。慎重な治療法選択が求められます。大学を離れ、自験例の資料さえも使用できなくなった60歳台後半からは、嘗て自分が報告した発生数の少ない疾患–主に骨折ですが–の総論を手掛けました。発生数が少ない疾患では、診断基準・治療法などが定まっておらず、果ては解剖学的用語の曖昧さに悩まされることもしばしばです。殊に米国からの論文には、しばしば解剖学的定義と臨床的用語が示す範囲の乖離があり、逐一論文内の図(X線、CT像など)などで確認せねばなりません。
現在日本肩関節学会の現役会員の方々は、かなり早い時期から専門分野を決めておられるように見受けられます。早く専門性を身に付ける事は、一方で一般整形外科的・基礎的知識の軽視・欠落を招きかねない危険性があることを絶えず念頭に置くべきでしょう。急いては事を仕損じる!